父が階段から転んだ——。その瞬間から、岩井さん（仮名）の“介護”が突然始まりました。
親の転倒は、いつか起こるかもしれないと頭では分かっていても、いざ目の前で起きると想像以上の衝撃があります。そして介護が始まると、親だけでなく、自分自身の体力の衰えや心の負担にも気づかされることがあります。
今回は、平日は東京で仕事をしながら、休日は埼玉の実家へ通い介護を続けた岩井さんの体験談をご紹介します。同じように「親の介護」と「自分の生活」の間で悩んでいる方にとって、少しでもヒントになれば幸いです。
頼もしかった父の転倒で始まる週末の介護生活
会社員の岩井さん（当時52歳）は、都内で妻と大学生の息子と3人暮らしです。営業の管理職として毎日忙しく働いていた頃、一人暮らしをしている父・勝さん（78歳）が自宅の階段から落ち、救急搬送されたとの連絡が入ります。
急いで病院へ駆けつけた岩井さん。診断は大腿骨の骨折でした。
「もし頭を強く打っていたら…と考えると、ぞっとしました。頑固おやじそのものだった父が、私の顔を見るなり、申し訳なさそうな表情をしたのを見たとき、初めて“老い”が押し寄せているのを感じ、強いショックを受けました」。
入院生活を支えて気づく自身の老化
勝さんは1か月の入院が決まりました。弟は海外、妻も自身の実家の親を手伝っており、岩井さんがひとりで父を支える状況に。
東京の自宅から病院のある埼玉までは片道1時間。平日は仕事、休日は病院へ通い、着替えの洗濯や治療の確認、実家の掃除や整理などをこなす生活が続きました。
「週7日、気が休まることがありませんでした。退院後の生活も心配なうえ、誰にも弱音を吐けず、不安と疲労だけが溜まっていきました。今思えば弟や妻にも相談すればよかったと思いますが……」。
自分が何とかしないと、という気持ちが岩井さんを追い詰めていきました。
退院後もつづく不安の種
退院後も、リハビリや生活サポートのため、週末の実家通いは4か月ほど続きました。
そのなかで岩井さんは、実家の“危うさ”に気づきます。急な階段、手すりのない廊下、冷え切る浴室、細かな段差——。
「また転ぶのでは」という不安がどんどん強くなっていきました。
思い切って同居を提案しましたが、「お前に、俺の暮らし方まで決められる筋合いはない」と、強い口調で反発され、話し合いは平行線のまま。
表向きはそう言ったものの、実は “息子の家族に迷惑をかけたくない” という父なりの思いやりでもありました。長年ひとりで暮らしてきた誇りと、息子家族への遠慮が入り混じり、本音を素直に言えなかったのでしょう。
一方で岩井さんも、病院の付き添いや家の管理に追われ、自分の時間がまったくなくなる状態に疲れがたまっていきました。
それでも「せめて階段を使わずに生活できるように」と、1階の和室に布団を移し、父が安全に暮らせるよう準備を整えていました。
そんなある日のこと——。勝さんが、段差を上ろうとしてよろける場面を目撃し、思わず岩井さんは声を荒らげてしまいます。
「危ないから、もう2階には行くなって言ってるだろう！」
すると勝さんは、寂しげにこう返します。
「2階にある本を取りに行こうと思ってな…。そんなに怒鳴らなくてもいいじゃないか」と、小さな声で返しました。
“あんな強い言い方をしなければよかった”と、後悔と共に涙がこみ上げてきます。
その瞬間、勝さんがぽつりとつぶやきました。
「階段も登れないなんて俺も情けなくなったぁ……」
強がってばかりだった父が、初めて見せた本音。その言葉を聞いた岩井さんは、胸が締め付けられるような思いだったといいます。
新しい日常で父も自分も「らしさ」を取り戻した
「同居ではお前の家族に気を遣わせるだろう……俺は、まだひとりで暮らせるよ」
勝さんはそう言って、息子に負担をかけまいとする気持ちをそっと見せました。そのうえで、岩井さんの家の近くにあるシニア向け賃貸マンションを選び、近居をスタートさせました。
段差の少ない住まい、病院や買い物先へのアクセスの良さ——。勝さんは次第に外出も増え、地域のサークルに参加するなど、前向きな日々を取り戻していきました。
岩井さんも、仕事帰りに気軽に立ち寄れる距離になったことで負担が軽くなり、自分の時間も戻ってきたといいます。
親の介護で悩むとき、距離の取り方 を少し変えるだけで、双方の負担がぐっと軽くなることがあります。
「近居」という柔軟な選択肢が、今の暮らしに悩む多くの方にとって、前へ進むヒントになるかもしれません。同居だけが答えではありません。
（グッドライフシニア編集部 ひしもと）
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